Taisho period 日本文化と西洋文化の融合。新たな文化に胸ときめかせる大正浪漫

19世紀のパリは日本一色

2024年は第1回「印象派展」(1874年)が開催されてからちょうど150年の節目で、東京都美術館や、あべのハルカス美術館、郡山市立美術館、東京富士美術館、大阪中之島美術館、山王美術館など日本各地で印象派に関する美術展が開催されています。

実は今から300年前、印象派の画家たちが活躍した19世紀のパリでは「ジャポネズリー(日本趣味)」と呼ばれる日本のデザインが大流行していました。
今も当時もヨーロッパ文化の中心だったパリの流行はヨーロッパ中に広がって、その時代のヨーロッパは日本一色だったと言っても過言ではありません。
印象派の画家モネやゴッホは、それをジャポニスム(日本主義)にまで磨き上げ印象派を立ち上げました。ゴッホは生前なんとしても憧れの日本を訪れたかったのですが、その夢は叶わず、日本に似ている(とゴッホは思っていた)南仏アルルに画家たちの楽園を作ろうとさえしたのです。ちなみに有名なゴッホの『ひまわり』は、楽園へ招待した画家仲間たち7人を歓迎するために描かれたと云われています。

なぜゴッホがアルルを日本のようだと思ったのか?一説によると、日本の浮世絵を観て、影が描かれていないことに驚き、日本という国はいつでも太陽が真上にある暖かくて明るい素晴らしい国だと勘違いしたからだとも云われています。
確かに南仏プロヴァンス地方にあるアルルは、地中海に面していて夏が長く、冬でも穏やかな気候で日照時間が長いのですが、当然ながら影はできますし、残念ながらゴッホがアルルに到着した2月20日の天気は雪だったようです。

新しい美術の流れを作った印象派の絵は、その後の画家たちにも大きな影響を与えました。
世界中で人気がありますが、特に日本で、モネ、ルノワール、後期印象派と呼ばれるセザンヌ、ゴッホなど、印象派の絵は好まれています。それほど美術に詳しくない人でも名前を知っているのではないでしょうか。
印象派の作品の中には、少なからず日本の美意識が含まれており、意識しているかいないかに関わらず、世界の中で最も日本人がそのことに反応しているというのはとても興味深いところです。

とはいえ、ゴッホの勘違いではないですが、日本の美に憧れてジャポニスムを標榜していた印象派の画家たちが、正確に日本を理解していたかといえば、一度も日本を訪れていないのですから、そんなことはないと思います。
しかし、芸術を通じて日本の良いところだけを前向きに抽出したのがジャポニスムであって、むしろ日本人が当たり前だと思って重要視していなかった日本の良さが、モネやゴッホの作品にはあるのだと感じます。

アーツ・アンド・クラフト(芸術と工芸)

19世紀の当時は酷評された印象派を擁護して美術の一大潮流にまで育てた美術評論家のテオドール・デュレは、日本について「日本にはとても精巧で芸術的な作品がたくさんあるが、しかし驚くべきことに日本人にとってそれは日用品なのだ」と評しています。
まさに19世紀末から20世紀にかけてパリで流行した「アール・ヌーボー」のデザイン的な特徴は、自然の草花を描いた日本の美術品や工芸品から採り入れた曲線的な美しさにあります。その時代背景には、イギリスから始まった産業革命によって大量生産に適した直線的なデザインの生活用品が生活の中に溢れて、暮らしに味気がなくなったことに対する反発がありました。

産業革命が始まった本国イギリスでも生活の中に芸術的な潤いを求めた「アーツ・アンド・クラフト運動」が起こりました。
草花をあしらったモリス商会(1861年設立)の壁紙は大人気となり、今では創設者のウィリアム・モリスはモダン・デザインの父と呼ばれています。本格的にイギリスに日本ブームが訪れたのは第2回ロンドン万博(1862年)からだと云われているので、モリスの壁紙にジャポニスムの直接的な影響があるとは言えませんが、ヨーロッパの中に日本的な美意識への渇望が芽生えていたのは間違いありません。

世界で初の万博である第1回ロンドン万博(1851年)の中心人物だったアルバート公(当時のヴィクトリア女王の夫)は、イギリスの工業デザインの向上を目的としたV&A(ヴィクトリア・アンド・アルバート)博物館を1852年に創設します。そこには世界中から集められた卓越したデザインの工芸品が展示され、日本からは江戸から明治時代にかけて作られた陶芸や金細工、そして着物が展示されています。
2020年にはヨーロッパでは初の大規模な着物の展覧会「Kimono:Kyoto to Catwalk」が開催され、当社も日本を代表して参加させていただきました。

甘く切ない大正浪漫

ヨーロッパが日本に夢中だった頃の日本はどうだったかというと、豊かな庶民文化を生み出した江戸時代から、黒船の来航に端を発した明治維新(1869年)による激動の時代を迎えていました。
ヨーロッパの大国と肩を並べようと近代化を目論んで、西洋文明を無条件に取り込もうという欧化政策が敷かれたのです。大げさに言うとヨーロッパが憧れた江戸時代の文化を、ヨーロッパの圧力によって全否定したのですから皮肉な時代だったともいえます。
現在、海外の美術館に日本の美術作品がたくさん所蔵されているのは、この時に自国の文化を軽んじた結果、残念ながら海外に流出してしまったからなのです。

西洋の真似が格好良いという風潮が生まれて、髪型もそれまでの「ちょんまげ」から(今では当たり前ですが)西洋風の髪型を奨励する法律(断髪令)が布告されたのですが、自分たちも髪を短くしなくてはならないと勘違いした女性たちが(今はオシャレのひとつですが)挙って短髪にし始めたので、翌年には女性の断髪禁止令が出されたりもしています。
このように明治時代は、急激な生活の基盤の変化に慌てながらも、近代化の旗印の下で西洋の文明に慣れようと大忙しでした。

そして明治時代の45年をかけた近代化の努力は実を結び、大正時代に入ると日本は第一次世界大戦を経て「列強5大国」の一員として世界に認められることになります。西洋が主導する国際社会の仲間入りを果たしたのです。
大正時代はわずか15年間と日本の歴史の中で最も短い時代ですが、大正デモクラシーと呼ばれる日本独自の民本主義(伝統を重んじた民主主義)が台頭して、市民が中心の社会的な変革も進む中で、普通選挙や男女平等を求める運動も盛んになり、今の時代に繋がる重要な時代でもありました。
人々の生活も明治時代の欧化政策で激流のように入り込んできた西洋文明が、単純な和洋折衷ではなく、日本の伝統と見事に融合し「大正浪漫」と呼ばれる日本独自の美意識が生まれました。
いくら国家権力から他の国の文明を真似ろと命じられても、人々の生活に根付いた文化は揺るがずに、むしろしなやかに新しい何かを生み出す大きな原動力になっていたのです。

パリ7区にできた世界初の百貨店「ボン・マルシェ(Au Bon Marché)」の発祥が生地屋さんだったのと同様に、日本の百貨店も多くが呉服店から発展したものでした。
都市部では海外から輸入されたファッションを楽しもうと人々が百貨店に集まり、江戸時代の大衆文化が再び盛り上がります。 日本の伝統的デザインにアール・ヌーボーなどの西洋的デザインを採り入れた安価な「銘仙(紬の絹織物)」の着物は発売されると同時に女性の間で大きなブームになりました。
その一方で、人々の暮らしを合理化しようとする「服飾改善運動」が国家的なプロジェクトとして推進され、女学生の服装が和服から洋服(制服)に変わっていったのもこの頃からです。
大正時代を舞台にした漫画『はいからさんが通る』の主人公たちや、NHKの朝ドラ『花子とアン』の主人公たちが袴姿にブーツを履いていたりするのも、モガ(モダン・ガール)モボ(モダン・ボーイ)と呼ばれるこの時代の最先端のファッションです。
ちなみに西洋風のオシャレを意味する「はいから」の語源は「ハイ・カラー(High Color)」と云われていて、西洋風の高い襟(カラー)のワイシャツを着て気取った政治家たちを指して呼んでいたもので、その逆の意味の「ばんから(蛮カラ)」は、それに反発してあえて荒々しく振舞う人たちのことを指しました。

そんな自由で豊かな時代の風潮を背景にした「大正浪漫」は、新しい時代への期待に満ちた明るさや、竹久夢二の絵に代表されるような個人の感情を伸び伸びと表現した抒情性、一方で後に始まる第二次世界大戦を予兆するような言葉にはできない不安感が同居した、甘く切ない耽美的な魅力に溢れています。

竹久夢二とロマンチック

ロマンという言葉は、古代ローマ時代に使われていたラテン語ではなく、庶民が使っていた話し言葉の「ロマンス語」が語源になっています。ですから芸術や文学では神話や歴史を描いた作品ではなく、人々の暮らしを描いた作品を「ロマン主義」と呼びます。それが転じて、人々の興味の真ん中にある恋愛話を意味する時に使われたりするようになりました。

日本では竹久夢二の生誕90周年(1974年)を記念する際に彼の作品を「ロマン」と評したことから大正浪漫という言葉が生まれたとも云われています。まさに竹久夢二の描く作品こそが大正浪漫の魅力だといえます。

1884年に今の岡山県瀬戸内市に生まれた竹久夢二は、油彩画やイラストを描くだけでなく「大正時代の浮世絵師」とも呼ばれ、まさに和洋が折衷する時代を代表する画家です。
画家として本流の画壇への憧れもあったようですが多才さが災いして願いは叶わず、むしろ在野でその才能をいかんなく発揮しました。
近代化が進み商業が発展する中で、書籍の装丁や広告ポスターのデザインを数多く手がけ、同じ時代にパリで活躍したアール・ヌーボーを代表する画家アルフォンス・ミュシャのように近代グラフィック・デザイン(商業芸術)の先駆けとも呼ばれています。
街に貼られたミュシャのポスターが「花の都パリ」を演出したのと同様に、夢二の大衆芸術も衆目に触れることで、大正という時代に彩りを与えていたのです。

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