aesthetic sense iki 江戸で生まれた「粋」という美意識
江戸時代の三都~江戸と京都と大阪~
日本のGDP(国内総生産)を都道府県別に見ると上位3つは、東京、大阪、愛知となります。経済規模の大きなこの3つの都市(東京、大阪、名古屋)を総称して東名阪と呼んだりもしますが、まさに現代の三都といえるでしょう。この「三都」という表現は、江戸時代から使われ始めた言葉で、その時の三都は、幕府が直接支配していた都市の中でも特に大きな江戸、京都、大阪を指していました(遡って中世の三都を京都、奈良、鎌倉ということもあります)。
今でも地域によって独自の文化が育まれているように、江戸時代も関西(大阪や京都)と関東(東京)の人々の暮らしぶりは全く同じではなく、ファッションの流行にも違いがあったようです。
当時の流行をまとめた江戸末期の本(「守貞謾稿」1837年)には、「京都と大阪は男も女も先ず艶麗優美(容姿が華やで美しいこと)を優先して、次に粋を兼ね備えようとする。江戸は心意気が一番で、美しさはその次だから少し感じが違う」と書いてあります。花で例えるならば「艶麗は牡丹、優美は桜、粋は梅」しかも「京都と大阪の梅は紅くて、江戸の梅は白い」ともあります。
また旅をこよなく愛した江戸時代後期の儒学者・広瀬旭荘によると、三都をそれぞれ日本が誇るべき都市だとした上で「京都の人々はプライドが高く、江戸や大阪といっても田舎であって京都には及ばないと思っている。実際、京都を見なければ、日本の伝統的な価値は解らないだろう。
大阪の人々は荒っぽくて、位の高い公家といっても商売人にはこびへつらう。だが、実際に大阪を見なければ日本の豊かさは解らないだろう。
江戸の人々は元気が良いがみな貧しい。しかし貧しいことを恥とは思わず名誉の方を重んじる。ただ実際に江戸を見なければ日本が諸外国よりも栄えていることが解らないだろう」と違いを説明しています。
もちろん個人的な感想ですが、平安時代から明治時代までおよそ1000年もの間「都」であった京都、古墳時代から水の都として国内流通の中心であり世界有数の商工業都市であった大阪、そして江戸時代には世界最大人口を誇った江戸の特徴を見事に言い当てていると思います。
世界最大の都市、江戸の流行「粋」
江戸時代は貴族や武士よりも庶民の文化が栄えた時代。特にその中心だった江戸の人口はおよそ100万人で、世界で最も大きな都市であったと云われています。
また江戸時代の識字率(文字の読み書きができる人の割合)は、全人口の50%を超えていて(江戸に限れば70%)当時の世界一でもありました。
江戸時代の人々の生活を描いた浮世絵(葛飾北斎『富岳百景~七夕の不二』1834年)には、たくさんの家の軒先で風に揺れる、願いを書いた短冊が描かれていますが、ここからも識字率の高さがうかがえます。
ちなみに、当時人口85万人のロンドンの識字率は30%、55万人のパリでは10%程度と云われていますから、日本は圧倒的な教育大国だったのです。その背景には全国に10,000軒以上あったとされる民間の教育施設「寺子屋」の存在が大きく影響していたのでしょう。
「粋(いき)」は、その江戸で生まれた美意識です。外国語でまったく同じ意味の言葉がみつからないことから、日本独自のものとも云われています。
「粋」はまさに心意気のことで、江戸の人々はお金をかけて装飾を凝らすのではなく、立ち居振る舞いや、仕草を洗練することを大切にしていました。装飾を最小限に抑えるところが、今でいうミニマリズムにも似ています。また「粋」が表面的な美しさよりも内面的な美しさを大事にすることから、似たような言葉としてフランス語のエスプリ(esprit)、英語のスピリット(spirit)と比べられることもあるようです。
世界最大の都市だった江戸の流行。
立ち居振る舞いや仕草の中に、あか抜けた都会的なクールさと、色気を漂わせた、日本のオトナのカッコ良さこそが「粋(いき)」であると言えるかもしれません。
東の粋(いき)と西の粋(すい)~
同じ漢字でも、読み方が「粋(いき)」と「粋(すい)」とでは意味が少し違ってきます。「いき」は「意気」に通じて心の持ち方のこと。
「すい」は今でも「粋を集める(特に優れたものを集める)」と使われるように、「たくさんあるものの中でも特に優れている」という意味や「選び抜く、突き詰める」という意味に使われています。
両方ともに江戸時代から使われ始めた日本の美意識を表す言葉遣いです。
主に関東では「いき」、関西では「すい」と読んで意味も使い方も使い分けているようです。
今でも例えばお正月に上げる凧のことを関東では「たこ」、関西では「いか」と呼んだり、いなりずしが関東では米俵の形をしていて、関西ではお稲荷さん(稲荷大神)のお使いの狐の耳を模した三角形だったりと、それぞれの文化の中でまったく違った様相を呈しています。
中でも鰻の捌き方の違いは特徴的で、関西は「腹を割って話す」商人たちが腹を開くのを好んだ一方で、関東の武家たちは腹を開くのは「切腹を想像させる」ので縁起が悪いと背中から開いて食べていた名残が今でも遺っています。焼き方についても、関東は一度蒸してから焼きますが、関西は蒸さずにそのまま焼きます。お料理をしたことがある人ならば、すぐに分かると思いますが、調理時間は「焼くだけ」の関西の方が長くかかります。
主君に呼ばれればすぐに馳せ参じなければいけない「せっかちな」武家文化と、それほど時間を気にせずに、むしろゆっくり時間をかけることを好む公家や商人の文化と通じるところがあるのかもしれません。
現在の日本の事実上の首都は東京ですが、「事実上」とわざわざ付け加えたのには理由があります。
実は日本の首都は法律では定められていないのです。
では、いつ(事実上の)首都になったのかといえば、明治政府が「江戸を東京と呼ぶことにする」と発表しただけで、有耶無耶なまま京都から東京へと政治の中心を移したのが明治元年(1868年)ですから、まだたった150年くらい前の話です。
当時は、首都をどこに置くかで意見が割れ、1000年以上も首都だった京都のままにすることや、戦国時代に天下統一の拠点であった大阪城を擁する大阪を首都にすることにも根強い意見があったようです。
それまで日本の都は奈良→大阪→奈良→京都と関西から出たことがありませんでした。東京への遷都には強い抵抗があったためあからさまには移せなかったようで、有耶無耶なまま事実上の首都になったようです。
こういった経緯を考えると、三都の間にそれぞれ何か譲れない文化が残っていることにも頷けます。